戒名・院号問題への誓教寺の提言

*戒名「料」は要らない

 世間では今、戒名や院号は「値段」が高いから要らないとか、それなら自分でつけるなどという動きがブームのようです。

ということは、本当は戒名や院号が問題なのではなく、戒名「料」や院号「料」が問題なのではないでしょうか。

タダなら、故人への(生前なら本人にも)そういう改名が純粋に必要かどうかだけで選択できますね。「ほしいけど、値段が高いから我慢します」などという心配はなくなります。

戒名料とか院号料は、取らなければいいのではないでしょうか。仏教にはもともと、何に対しても「料金」はありません。お布施をするかしないか、お金でいくらくらいお布施するか、それはすべて、お布施する側の自由意思によるものです。僧侶は、お布施されたら受け取る、お布施されなければ手ぶらで帰る、だけでよいではないですか。

そうすれば、地に堕ちた葬式仏教への信頼感も少しは回復するというものです。今はまだ、葬式の時だけはかろうじて、仏教や僧侶への期待もあるのです。今のうちに、せめて葬式くらいきちんと、心を込めて、遺族と故人のために活動してはいかがでしょうか。

葬式にも必要とされなくなったとき、日本仏教は完全に終るのです。

いや、それは違うか。日本の寺と僧侶が、完全に終わるのです。日本で仏教を学び実践する一般の人々は、まだ当分は変わりなく、存続し続けるでしょう。 


*葬式は自分で決めてね 

  もちろん、戒名や院号が必要だと考える故人や遺族の側にも一考が必要だと思います。「値段が高い」から自分でつけるのもいいのですが、何のための戒名、院号かを、考えてみていただきたいのです。

戒名、院号を付けるのは、「葬式の時に名前を変えるしきたりだから」ではないのです。戒名は、在家の五戒を授かって、自覚的に仏教徒になったとき、ついでに名前も仏教的なものに変えるだけのことです。戒律を授かるために名前を変えなくてもいいのです。戒名だけ付けて戒律を授からないのは、あり得ない話です。それは「戒名かいみょう」ではなく、ただの「改名かいめい」です。

世間的な見栄のために、戒名や院号を付けるのは、感心できません。戒を授かるなら戒名、仏法や寺を護持するなら「院号」が、あってもよいのです。 


*貯金と借金みたいなもの 

  誓教寺では、戒名も院号も故人や遺族の好みで無料で付けています。

無料なのには、一応、理由があります。決して面倒くさいからではありません。

もともと誓教寺門徒(護持会員)として誓教寺を護持していた家族の一員なら、戒名も院号(大人には)も、当然授けるものです。これまでの誓教寺護持の貯金があったと考えると分かりやすいでしょう。

新喪で門徒になった人、門徒ではないけど縁でお参りする人には、貯金はない? 

では借金?でいいでしょう。

お金を借りる必要はありません。「戒と戒名を先に授かった。これから、心が清らかになるように頑張るぞ」と、仏法に対して「借金」します。「院号を先に授かった。これから、寺を護持するために頑張るぞ」と物質的にもがんばればいいのです。物質とは、お金のことだけではありません。法要行事の世話や寺の掃除はもちろん、ただお参りして境内の土を踏み固めるだけでも、自分の縁を強めるだけでなく、境内の地盤強化になります。本堂に上がって呼吸するだけでも、建物の空気を循環させ、長持ちさせます。バカにしたものではありません。仏法や寺への縁結びが、そのまま仏法や寺の護持につながるのです。

(だから、本堂や山門に鍵をかけて人が入れないようにするのは感心できません。)

戒名も院号も、仏法や寺の護持に関心があるなら、堂々と、無料で、授かればいいのです。仏法に関心なく、ただ「高いから自分で」というのは、みみっちいケチ思考です。ケチは、じつは悪業です。気をつけましょう。 


*戒がないから法名?(戒のない仏教はあり得ない) 

  浄土真宗では現在では、「戒律を授からないで仏教徒になるから法名(仏法の名前)」と言っていますが、戒律のない仏教は存在しません。開祖の親鸞聖人は、戒律を授かったのに、「守れない」と破戒したのです。

現在の真宗でも、堂々と戒を授けてから、「守れない」と破戒すればいいのではないでしょうか。他の宗派と同じく。

破戒すれば、慙愧の念が起きます。これは(仏法に対する)悪を犯した自覚です。「悪人」の浄土真宗には大事なことです。戒律を授けなければ、破戒もありません。ただの無戒です。まだ仏教徒ではありません。慙愧の念も起きません。「悪人」の自覚も生まれません。真宗者にもなれません。ただの、煩悩具足の一般人です。せめて、親鸞聖人と同じく、「悪人」の自覚くらいはないと、浄土真宗は歯止めなくだらしなくなってしまうのではないでしょうか。